知らない場所について
もう10年くらいお世話になっている美容師さんが新たな店舗に移ることになったので、家から約1時間半かけてそこに行く。
知らない場所に行くのはなんか億劫でちょっと憂鬱な気分になってしまうけど、でもそういえばこの世のほとんどが知らない場所だよな…って行きの電車でそう思った。
それに気づくと次は「じゃあ楽しみだぜって思ったほうが絶対得じゃん」ってつい無理やり対極のことを思おうとしてしまうけど、そうじゃなくて、別に億劫でも楽しみでもなく、単にニュートラルでいられれば良いのにな。
そして実際行ってみるとなんてことない。
「住めば都」みたいに勝手に良いところを探して馴染もうとする能力が発動するから、結局のところは大丈夫なんだな。
自然な言葉が出てこなくて気持ちがわるいと思ったことについて
自然な言葉が出てこなくて気持ちがわるい。
去年の11月を最後にブログの更新が途絶えた。
途絶えたと言っても、もともと月に一回書けば良いほうなペースだったけども。
今年に入ってから言葉で頭がいっぱいになって、なんとか外に吐き出したくて何回かブログを書こうと思った。
いつも通り自然に出てくる言葉を文章にしてみたけれど、なんかこれじゃない…という違和感で削除してしまう。
自分の場合、いろんな物事を言語化できるようになったらその問題とは折り合いがついたという合図だと、去年気づかせてもらった。
だから、言葉に出来ないことはまだそのことについては折り合いがついていない、途中段階だからなのかなと思った。
でも、気づいて良かったなと思うことを書こうとしても同じだった。
いつも通り自然に書いているつもりでも、できあがった文章を見ていると…なんかこう…気持ちわるい。
自分が書いたものではないみたいな、取り繕ってわざとらしいような…違和感。
自然に出てきた言葉だと思ったのに。
書き連ねてみると、なんか違う。
全然、なんか良かったじゃない。
最近、言語化について考える機会が多い気がする。
わたしは気持ちを言葉にすることが苦手だ。
言語化の瞬発力なんてまるでない。
マイナスな感情は特に、まずその感情を感じないようにするところから入る癖があるみたいだから、自覚して言葉に出来るまで時間がかかる。
そんなとこを踏まえてひとくちで「苦手」だと思っていたけど、もしかしたら慣れていないだけなのかもしれないとも最近思った。
言葉も文章も技術。
訓練と慣れでなんとかなる、という話を聞いた。
強靭な肉体をつくるために筋トレをするのと同じように。
今朝、なんにもまとまっていないけど、なんとなくブログを書いてみようと思った。
そして今に至る。
抑えこんだ怒りについて
自分の怒りって、蓄積型でお湯が沸騰するようにちょっとずつ熱されて沸点をこえたらバーンてするのかと思ってたけど、どうも違った。
みそ汁とかでよくある突沸に近いのかもしれない。
ちょっとずつ熱が蓄積されていつのまにか沸点を超えていてそれに気づかずにしばらくしてちょっとした衝撃でバーンてなる。
もうしばらくこれが続くときっと怒ってしまうんだろうな、という予感はあった。
ホルモンバランスが乱れていたりコンディションがよくないときとかに抑えきれなくなるんだろうなぁ、なんて「もうちょっと先」と思っていたタイミングがびっくりするくらい早く訪れた。
自分でもこのタイミングで!?と思う。
一度爆発して、冷静になって、しばらくすると今まで溜めこんでいたあれやこれがどんどん溢れ出してきてその量と大きさに驚く。
そして怒ってしまった自分、それを責める気持ち、どうしようもなく落ち込んで、傷ついて、後悔する気持ち。
全部無かったことにしたかった。
どんな感情でも否定しないで受け入れていきたい。
たとえそれがネガティブな感情であっても。
ようやくそこに気がつけるようになって意識はしてきたけれど、やっぱり見ないふりをし続けていた部分や受け入れられていないところがまだまだあるみたいだ。
自分の、0と10しかないみたいな穏やかさと激しさの振れ幅がコンプレックスだった。
あまり見たくない、感じたくない部分を、少しでもよしよしって普段から少しずつ受け入れていったら、0と10が統合して5くらいのちょうど良さでいられるのだろうか。
心の底に押し込めた感情の鍵を外すについて
とっても好きな人ができた。
初めて会ってからもうしばらく経っているけど一緒の時間を過ごしているうちに、少しずつあれ?あれ…?とおもっていたら好きになっていた。
ここは本題ではないのであんまり詳しいことを書くつもりはないけれど、その人を好きになるにあたってひとつだけ大きな問題があったので、この人のことが好きなのか、と気持ちを確定するまでけっこう時間がかった。
一度認めてからは、なんか楽になった。
そして向こうが自分を好きになることは考えにくかったので、この気持ちは内に秘めることにした。
人を好きになってうれしいことや悲しいことで感情が揺さぶられるのもひさしぶりでなんか楽しい。
一方通行でもいつかはなんらかの形で着地はするんだろうから、気の済むまで好きでいればいいや、と思っていた。
何がなんでも手に入れてやるとかガンガンいこうぜみたいな思いは無かったので、わたしはわたしで、そっと好きでいようと思った。
だけど、やっぱりなんかつらかった。
やっぱりいいなぁこの人のこと好きだなあって思うたびに泣きそうになった。
理性と感情は別物だからまあそんなもんだろうと思ったし
ここまで割り切れているのになぜつらいんだろうとも思った。
その答えは簡単だった。
本当は、全然割り切れていなかった。
好きでいたい。好きでいさせて欲しい。好きでいることと結ばれることを願うことを許してほしい。
これが自分の本当の思いだった。
最初に好きという気持ちを受け入れるにあたって話を聞いてくれた方から、ずいぶん自分を責めていたんだね、と言われた。
言われた本人は、言われてみればそうなのかもしれない…とは思ったけども、実感としてあんまりピンときていなかった。
本当の思いがわかって、ああそういうことだったんだなぁ…と実感した。
問題とかどうなりたいとかそれ以前に、自分が好きと感じること自体を許せていなかったのかもしれない。
自分のことだけど、この切実な想いを文字にして読み返すと涙が出そうになる。
というかコメダでこれを書いて読み返していたら涙がでてしまった。
こんな気持ちをすっかり無視してしまっていたんだなぁとびっくりしたし、自分に対してとても申し訳なくなった。
ごめんね、そりゃつらいわ。
自分を傷つけかねない大きな感情は見ないふりをしたほうがその時は楽かもしれない。
だけど本当の気持ちに蓋をして厳重に鍵をかけて無かったことにしてばかりいると、それらと一緒に喜びやしあわせを感じる心までもが無になってしまうことをわたしは知っている。
これは何度だって言う。
傷つくことはこわいしできれば避けたいけど、わたしは心が無になるほうがもっとこわい。
好きな気持ちも、泣きそうな気持ちも、自分を責めていた気持ちも、自分をゆるせなかった気持ちもぜんぶ、そこにあってオッケーだよと言ってあげたいと思った。
わざと感情をかき乱す遊びについて
曰く付きの思い出と思い入れがまんさいな曲たちをわざと聴く遊びをしている。
これに関する傷口はすっかり癒えてほんの少し痕になっているくらい。
その曲たちを聴いていると感傷的すぎずかすかにむず痒い感情が呼び起こされるのが、ちょっと楽しい。
曰く付き真っ只中のときは曲を聴くだけでつらくて涙がにじんでいたのに、
つらくて苦しくて終わりがないと感じていたことも、いつのまにか大丈夫になってる。
泣ける映画を観て楽しむように遊ぶこともできるようになってる。
なんかふしぎだ。
今までの自分をぶっ壊すについて
まとまらないけれど今言葉があふれるままに書き留めたいと思った。
執着。
どうしても手に入らないもの。
時間を費やしたとしてもどうにもならないもの。
きっとそれらを手放せばその空いたスペースにより良いものが入ってくるのかもしれない。
でも今目の前にある美しいもの、心地よいもの、愛おしいもの、どうしても欲しいと思うものの輝きは何にもかえがたい。
手を伸ばさずにはいられない求心力がある。
だめだってわかってるのに、触れたいと思ってしまう。
たどり着きたいゴールを明確に描かずに、感じるままに動いている。
この感じ、覚えがある。
今から5〜7年前くらいに、手に入らないものばっかり欲しがって、それまでの自分ならやらなかったことばっかりをやったときがあった。
結果としてはぜんぶ上手くはいかなかったけれど、とっても大きなことを学んでわたしはとっても大きく変わった。
なんだか大きな感情と流れに翻弄されたように思っていたけれど、当時から数年たったあと、自分を壊したいがために自ら混沌の中へ飛び込んでいた可能性があったことも知った。
この考え方にはとっても納得している。
今ならわかる。
今だからそう言えるのかも知れないけれど、確実に、明確に自分をぶっ壊したかった。
そうしたら、今のわたしもそうなのだろうか。
あのときの自分みたいになりふり構わず当たって砕けて散ることも厭わないような勢いはないかもしれない。
だけれど静かに着実に今までの自分が壊れていくことを密かに楽しんでいる自分がいるかもしれないとそう思った。
たぶん、また新しい自分になろうとしている。
どんな感情でも受けとめるについて
悲しいとか苦しいとかつらいとかいわゆるネガティブな感情をなるべく見ないようにするほうが楽だと、たぶん心のどこかで思っていた。
うわ、いやだな〜〜〜と感じても
心臓がどきどきして体が強張っても
本当は悲しくて、怒りが湧いてきても
「大丈夫、大丈夫、わたしは何も感じていない」
深呼吸をしてそれらを無かったことにすれば、ネガティブな感情に襲われて落ちこむこともない。
ネガティブな感情から目をそらせば一時的には楽になれる。
ネガティブな感情に限らず広く言うのであれば確かに見なくて済むものなら直視してわざわざ疲労することはないと思う。
だけど自分が感じたことに関しては見ないふりしたり抑えこむのはあまり良い方法でないと、ようやく実感を伴って学んだ気がする。
それを続けているとネガティブな感情以外のものも感じにくくなってしまうからだ。
自分のうれしいとか好きとか楽しいとかもよくわからなくなってくる。
あらゆるものへの興味も薄れてくる。
結果、何もする気が起きなくなる。
何かしたいと思っても、そのためのエネルギーが不足していると感じる。
なんでこんなにやる気が出ないんだろう?
やろうと思っているのになんでできないんだろう?
多分そうやって自分を責め始める。
そして自分が何が好きだったのか、しまいには自分が何者だったのかよくわからなくなる。
それはなかなか抜け出せなくなるし、とってもつらい。
つい最近またちょっとそんな感じになりかけた。
以前の経験と大切な友だちがゆっくりじっくり話を聴いてくれたおかげで、自分がからっぽになる前にそれを思い出すことができた。
たとえどんな感情であっても自分がそう感じたなら、感じたものはもう仕方ない。
感じたからには、わたしはそう感じるんだねえと、どんな感情でも受けとめる。
やっとちょっとずつわかってきた気がした。