本当に望むことと願いの方向について
大人数での飲み会が苦手だった。
引っ込み思案だし、おもしろい話もできないし、声も小さいので、そういう場では圧倒的に聞き役に回ることが多い。
気心知れた同士であれば、控えめながらも楽しく参加できるし、みんなが上機嫌に楽しくお酒を飲むあの場の雰囲気はとっても好きだ。
ただ、あまり話したことのない人たちの中に入ると、全く自分から発言できずにただ笑うだけで、精神的にぽつん…としてしまうこともあった。
そんな時は決まって、おもしろい話ができたらな、とか、盛り上がるリアクションがとれたらな、とか、なんでわたしは気の利いた話題を提供することができないんだろう…など、突き詰めると自己否定のターンに入ってしまう。
精神的にパワフルなときは、その殻を破ろうと飛び込んでみることもあるのだが、当然向いていないことをそう突然できるものでもなく、空回りをして自己嫌悪に陥ることもしばしば。
具合がわるいときは、この人何も喋らないのになんでここにいるのかな?とか思われたりしないかな…と、ネガティブな発想をしてしまうのだ。
そうなると当然、よりいっそう縮こまってしまい、負のスパイラルに陥っていく。
楽しいはずの飲み会なのに、考えても仕方ないことに気を取られて楽しめなかったり、果てには参加する前から、今日はうまくやれるだろうか?と、ナーバスになってしまうのだ。
ついこの前も、あまり話したことのないメンバーが集う飲み会が予定されていて、いつも通り、みんなとうまく喋れるかな…ぽつんとして変に思われたくないな…などと数日前からそわそわしていた。
でもその時は、なぜだかわからないが、ふっと我にかえる瞬間が訪れた。
あれ?待てよ。
別にわたしは飲み会で大いに目立ったり、芸人さんみたいにみんなを笑わせるようなおもしろい話がしたい、というわけじゃないんだよな。
それに人にどう思われるか、なんてどんなに頑張っても自分でコントロールできる領域でもないし、そこは悩んだって仕方ないんじゃないか、と。
じゃあ、だったら、わたしはどうなりたいんだろう。
突然湧いて出た根本的な疑問に、答えはすんなりと導きだされた。
わたしは楽しみたい。
いろんな人との会話を、その場を、存分に楽しみたいんだ。
「うまくやらなきゃ」から「楽しみたい」という思いにシフトした途端、うそみたいに気持ちが軽くなった。
じゃあ、自分のできる範囲で、どんな風に過ごせれば楽しむことができるだろう、と考えることは、どうしたらうまく喋れるだろう盛り上げられるだろうと悩むことと比べようもないほど、前向きな発想だった。
声が小さくて遠くの人に届けられなくても、目があったら照れを捨ててにこっとしてみようかな。
おもしろい話ができなくても、誰かの空いてるグラスや場所をとっている空き皿に、すぐ気がつくことができるかもしれない。
そのおかげかわからないが、件の飲み会は三次会への参加に至るほど、楽しく過ごすことができた。
自分にできることが少しだけわかって、それで得られた成果で思わずにこにこと自分を褒めたくなった。
再び挑む際のハードルもぐっと低く感じると思うし、自己反省会で自分をさいなむより、ずっとずっと健康的だ。
自分の本当の望みに気がついて、願い方をほんの少し変えるだけで、思わぬ突破口がみえてくる。
今回の気づきは、個人的にとってもうれしかったので、ブログに残すとなんか良いかもしれない、と思ってこれを書いている。