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人を変えようとしたり、コントロールしようとすることについて

人を変えようとしたり、コントロールしようとすること。

利己的な理由からだったり、自分の価値観や正義感から外れたものへの不快感からであったり、時に他人に向ける期待感からであったり。

それはとても自分の持つエネルギーを消費してしまうし、いくら頑張っても、無駄な行為であることが多いと思う。

今までに、仕事に対する思いと取り組み方が全く異なる人に対して、なんでそんなやり方をするんだろう、と腹をたてたり、あの人やみんなに認めてもらえば自信が持てるのに…など、そんな風に、自分以外の人が思い通りに動いてくれることを望んだことで、あまり心地よくない思いをする経験をしてきたので、重々身にしみてわかっていると思っていた。

例えそんな思いにとらわれても、すぐに気がついて方向転換を出来るはずだと。

 

でも、自分が思わぬ形で、人を変えようとしていたり、コントロールしようとしていることには、なかなか気づくことが出来ていなかったことを、ついこの前、知ったのだった。

 

詳細は省かせてもらうが、わたしの父は365日、余程のことが無い限り欠かすことなく行う、自己破壊的な習慣を持っている。

表面上ではわたしと父との関係は良好であるが、そんな姿を見ていることもあって、きっと本当のところでは理解し合えないだろうな、と感じていた。

そのことだけが全ての原因ではないが、かなりのウェイトを占めていることは否定できない。

父と母との関係も同様に思えて、近年、その習慣の頻度が上昇するにつれ、比例するようにふたりの関係もあまり思わしくないものへと変化していった。

四六時中ではないが、ときおり訪れる不穏な雰囲気に、居心地の良くない思いをしばしば体験する。   

以前は、夫婦間や、時に両親と祖母との問題が起きた時は、境界を越えてわたしが何かをしなくては、と自身の解決すべき問題として抱えて、悩んだり苦しんだりすることもあったが、今は、どこからどこまでが自分の領域か、なんとなくわかってきたとは思う。

それでも、ここ最近、家族と過ごす比重が大きくなっている為か、自身の心の安寧を守るために、少しずつ、段々と思考が自分の領域をはみ出していった。

 

なんとか、良い方向に向かないかな。

この歳にもなったので、その関係に決着をつけるとしても双方の判断に委ねるけど、できるなら、平穏にことが収まってほしい。

だけど…

父は、あんな子供じみたやり方じゃなくて、もっと良いやり方があるだろうに。

母も、最初から駄目だと決めつけないで、きちんと話し合えばいいのに。

夫婦だからって、お互いに縛り合わずに、もっと自由にやればいいのに!

 

もやもやもやもやと考え続けて、やっとそこで我に返った。

 

「こうすれば良くなるのになぁ」という、善意からくる思いだけれど、これも一種の、人を変えようとしたり、コントロールしようとすることに違いないのではないのだろうか?

 

確かに、そうすることで改善し、自分が癒されてきた経験や実感に基づいた、とても有益な情報であることには違いないとは思う。

でも、「絶対良いのにどうしてそれをしないんだろう!!」と悶々と考え続けたり、それらの情報やアドバイスを伝えてもなかなか実行しない(できない)彼らにやきもきすることは、あまり有用なやり方ではないのかもしれない。

例え、自分が100パーセント良いと思うことから発露した思いや行動でも、人を変えようとしたり、コントロールしようとすることに繋がりうることは、わたしにとって盲点なことだった。

 

夫婦の問題は、父と母、それぞれに任せよう。

わたしはわたしで、父との間にある問題について、考えよう。

 

とりあえず、今まで頭のなかでアレコレ考えていた「こうなれば良くなるのに」をいったん手放すことに決めた。

解決策を探り始め、しばらくすると再び人をコントロールしたい欲に駆られている自分に気がつくが、長年の癖をそう簡単に手放すのは難しいことなので仕方ない。

その欲に気がついて、認めて、軌道修正をしていく。

だけど、自分以外の人に対して改善を働きかけることをしないとしたら、あとは自分に出来ることは何もないのだろうか。

 

そんな風に思いを巡らせているうちに、あるひとつの方法にたどり着いた。

 

 今、自分ができることは、父の思いに耳を傾け、そして自分が父に対して何を考えどう感じているか、それらを伝えることなのではないか、と思ったのだ。

 

改めて考えてみると、かくいう自分こそ父と素直に向き合ったことが、ほぼ無いことに気がつく。

それはとても、勇気が要ることだ。

父も母も、わたしと同じように、向き合うことに恐れを感じるのだろうか―――、当たり前なようなことでも、そんな事を想像したのは、初めてかもしれない。

 

父にとって、自己破壊的な習慣にのめり込むことは、どんな思いや意味があるのか。

その姿を見て、わたしが何を考え何を感じているのか。

今まではこうすればいいのに、と思っていたけど、これからはなるべく見守っていくこと、そしてわたしは父が自分自身のことを大切にして、父も含めた家族全員が自由に、楽しく、心満たされて生きていてほしいと思っていること。

それらを父に、なるべくまっすぐに伝えてみた。

 

それを受けて父は、自身の心境を少しずつ語って、わたしのする話に、そうだな、本当にそうだな、と肯定しながら聴いてくれ、そして話の終わりには、良く話してくれた、ありがとう、という言葉をくれたのだった。

 

とりあえず、今、自分に出来ることはここまでなのかもしれない。

 

正直なところ、かなりの理解を示してくれた父に対して、わたしの伝えた思いに感銘を受けて、その習慣を断つ素振りを見せたりしないかな…とか、早々な変化を期待する心も、もちろんあった。

だけど今のところ、父にそういった傾向は特に見られず少し残念に思うが、これこそがまさに「自分の言葉で父を変えたい」というコントロール欲に他ならない。

あとは父と、これからの流れに任せて、様子を見ていこうと思っている。

 

わたしのたどり着いた考えや手段が、何よりも正しく、全てにおいて有用だとは決して思わないし、そもそもまだ問題解決はしていないので、今の段階では、なんかやってみて良かった仮説に過ぎないこともわかっている。

あらゆる角度から発生しうる「人を変えようとしたり、コントロールしようとすること」、そしてその苦しさを手放すことの良かったは、これからも引き続き観察していきたいと思う。