後悔のもっている中毒性について
久しぶりに、がっつりと後悔をした。
出来事の詳しい説明は避けるが、自分の意にはそぐわない八方美人かつ曖昧な態度をとった結果、望まぬ人間関係を引き寄せ、心地よい環境をしばらく失うことになってしまったのだ。
そして、シャツのボタンを掛け違えたみたいに、そこからあれもこれも…と、微妙にずれが生じていく。
相手からの強めな要望もあったことで「これは断りきれない。仕方ない」とその場では流されてしまったが、あとから考えると、望まれたからってそれに従う必要性は全くなく、「いや、私はこうだから」と自分の望む方向を選択できた筈だった。
訪れてしまった現状を憂いるたびに、ああ…あの時こうしていれば…、そうすればこれがこうなってああなって…、と次々に浮かんでくる「あったかもしれない良い未来」に思いを馳せている。
時に、ifの世界に取りつかれていることに気がつき我に返るが、また気がつくといつのまにかに思考は元の位置に戻っていて、頭の中は妄想でいっぱいになっているのだった。
以前、このブログで紹介した本との出会いを得てからは、後悔がいかにデメリットしかない行為であることを知り、長いスパンで後悔と付き合うことは全くなくなった。
それでも久しぶりにがっつりと後悔を味わって、改めて実感したことがある。
「後悔する」という行為は、自覚している以上に、大切な時間と自分のエネルギーを、たくさん無駄に消費していること。
より良い未来を熱望しながら、より良い未来に向かう気力を自ら奪っていること。
そして、それらすべてをわかっていながら、それでもやめられない中毒性と、まやかしの魅力が確かに存在すること。
なんだかこれらを書きだしていたら、「幸せな結婚を望んでいるのに、大切にされている実感も将来性もなくただ魅力的な異性に入れ込んでしまう」…そんなシチュエーションが浮かんできた。
ちょっと飛躍しているかもしれないが、発端や経緯は違えど、望む未来とは逆に自ら望まぬ道に身を投じてしまう…、そんな様に、なんかちょっと通じるものがあるのではないだろうか。
確かに、辿るどの道にも学びはあり、その先にいくらでも救いは存在しうると思う。
だけど、生きている時間は有限だ。
それならば、後悔に囚われることなく、前進しながら得る学びと救いを選んでいきたいと、改めて思ったのだった。