人の成長に気づける人は、自身の成長にも気づきやすいについて
少しずつだけど、ずっと抱えていた家族の問題について、着地点や目指すところが見え始めてきた気がする。
まだ解決にはいたらなくても、暗中模索のすえに一体何をどうすればもうわからない、と途方に暮れていた頃とは、まったく心持ちが違う。
詳しいことはまだ書けないし、相手があることなのでこの先どこまでシェアができるかわからないが、何かしらかたちにできたらな、とは思う。
このタイミングで、同じ問題を共有し、右往左往しながら暗中模索を共にしている母から、こんな言葉をかけてもらった。
「今回のことであなたにいろいろなことを教わって、本当に良かった。」
この家族の問題に向き合うにあたって、わたしと母はたくさんのことを話し合った。
わたしが仕事を辞め学校に通い始めて、家にいる時間が以前より増えたこともあるが、ここまで母といろんなことを話し合う機会はなかったように思う。
どう向き合えば良いかとか、どう考えたら楽になるとか、
こんな良いことを思いついたとか、他所で仕入れてきた有益な情報のシェアだとか、
このブログに書いているような良かったこと、気づいたことを伝えたり、
時には、自分の過去の経験や、これからやりたいこと、身近に起こった出来事、もちろん愚痴や泣きごとも多かったと思う。
すこしふしぎな世界の話をするときは、母にも受け入れてもらえそうな言葉に変えて伝えてみたり。
もともとわたしは、何かを改善させる、何かを学ぶということが好きだったので、折にふれて良かったことを母にシェアしていたことはあったが、だいたい決まって母の反応はこうだった。
「そうなんだ。とても良いってことはわかったけど、やっぱり忘れちゃうし、めんどくさくてやらないかもな〜」
余談だが、当然、それらをやる、やらないは本人の自由だ。
ちょっとさびしいなあとは思うが、わたしも教えを説いているつもりはなく、自分が良かったと思うことを発表しているだけなので、そこから先はそっと見守るスタンスを努めている。
時たま湧き上がるコントロール欲をどうどう、と落ち着かせる場面も、まあ、無くはないが。
そんな感じの母だったが、ここ最近では、ちょっと様子が違った。
自分の気持ちがよくわからない、と言った母に、少し前に知ったばかりのノートを使ったとある思考整理法を伝えたことがあった。
私自身もたまに自分の本当の気持ちが分からなくなることがあるので、これは良いぞ、とスマホにメモを取っておいたのだが、やらずに忘れていたものだ。
母に伝えたことでその存在を思い出し、私もやってみるかーとは思ったが、案の定、その晩にはその存在を再び忘れていた。
するとその翌朝。
「昨日のノートやってみたら、自分の気持ちわかっちゃった!」
そんなふうに嬉しそうに話している母を見ながら、
「えっもうやったの!?私なんかすっかり忘れてたのに!」
と、その変化に驚いたことをよく覚えている。
その後の母の変化もめざましく、人は自分の気持ちが分かって、覚悟を決めると、行動も早く、そして現実も同じようなスピードで動いていくんだなぁ、という事を母の姿を見て実感した。
冒頭に戻るが、そんな母が私にかけてくれた
「今回のことであなたにいろいろなことを教わって、本当に良かった。」
という言葉。
母はしきりに私の成長を褒め、私のおかげだとばかりに言ってくれたけれど
その言葉を聞いて、すぐに心に浮かんできたことがあった。
確かに私はたくさんのことを母に伝えてきた。
だけど、それを素直に受け取って、自分のなかに落とし込んで、
実際に行動に移してきたのは母自身だ。
すごいのは私だけじゃなくて、ここまでこれた母も相当すごいんだよ、と。
そのことを一生懸命母に伝えたが、拙い言葉になってしまったので、母の反応をみるに、真意が伝わったのかは、ちょっとわからない。
だけど、そこにはもうひとつ、私にとっても嬉しい気づきがあった。
たぶん、少し前の自分だったらそう言われて、自分の成長を喜ぶにとどまったよう思うのだ。
こんな風に、自分以外の人の成長に気づかなかったかもしれない。
以前、何かに記事で「人の成長に気づけない人は、自身の成長にも気づきにくい」と読んだことがある。
これは、自分に厳しい人の特徴として挙げられていて、ちいさな自分の成長にも気づいてあげようね、じゃないと人の成長にも気づけない人になっちゃうよ、的な話だったと思う。
私はそれを読んでドキッとしたことがある。
だから、今回のように、自分以外の人の成長に気づいて、
それを認めて、素直に褒められるようになっている、…ということは、
自分自身にもそれができ始めているということになるのだ!
自分の成長も、自分以外の人の成長もとってもうれしい。
人の成長に気づける人は、自身の成長にも気づきやすい。
その原理が、よーくわかったような、とっても良い出来事だった。