なんか良かった

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自分の喜びを限定しないについて

「みんながもっと喜んでくれたら、私ももっと楽しくなるし、頑張れるのに…」

 

昨日、そんな愚痴をふと聞いた。

どうやら彼女は今自分のしている仕事に対して、期待したような反応を周囲から得られずに、モチベーションが下がっているようだった。

 

確かにその気持ちはとてもわかる。

何事も無反応より反応があったほうが、張り合いが出るものだ。

 

でも、そういった「嬉しい」「楽しい」を自分以外の他者に求めてしまうと、あるとき行き詰って苦しくなってしまうことも知っている。

他者は思う通りにコントロールができない。

褒めて欲しい時にベストタイミングで褒めてもらえるとは限らない。

他者の心のうちは決してわからない。

たとえ内心で「良いね!」と思っていても口には出さない人もいるので、褒められない、反応がない=評価されていない、と勘違いをしたりして、振り回されてしまうのだ。

 

そして「私は〇〇をすることが楽しい」だったはずのものが、いつしか「私は〇〇をして褒められたい」になり、〇〇をすることの意義がすり替わってしまうこともある。

「私は〇〇をすることが楽しい、嬉しい」が軸にあれば、そのことに対して他人からの評価が低くても高くても、むしろあってもなくても、揺るぎないもであり続けられるのだ。

 

そういったわたしの考え方と、実際、彼女がまわりから評価されている声を聞いたことがあるのでそのことを伝えたが、彼女はまだなんとなく腑に落ちない様子であった。

きっと彼女なりの理想のパターンがあるのだろう。

 

彼女のように、喜びの理想を限定するのは、とても勿体無いことだとわたしは思う。

固定された理想しか見ていないと、それとは少し違った形の喜びが舞い込んできても、きっとそのことに気がつかず、受け取ることができないのではないか。

 

1つの例を挙げて、以下のようなイラストを描いてみた。

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あるお家のお母さんが、みんながもっと喜んでくれば、もっと料理が楽しくなるのに、と悩んでいる。

彼女の理想は、家族が競っておかわりをするくらい喜んで食べてくれること。

でも、旦那さんは即席ラーメンがおいしかったと喜んでいるし、娘は小食であまり食べてくれない、お義母さんは褒めてくれるけどきっと気を使ってくれてるんだわ、とため息をついている。

 

しかし、本当にそうだろうか?

 

イラストの家族の心のうちを見ると、みんなそれぞれ形の違う感謝を持って「おいしかったよ!」と言っている。

違う見方をすれば、家族たちが感謝を伝えるのに言葉が足りていないよ、ということも言えるのだが、ここで問題になっているのは、お母さんが喜び方を「これ!」と限定していることにあると思う。

お母さんは「競っておかわりをするくらい食べてくれる」という家族の喜び方を限定さえしなければ、形は違えどそれぞれの家族からの「おいしかったよ!」という喜びを受け取れたのではないのだろうか。

 

でもきっとこういったことは、彼女が自分自身で自覚し、実感しなければそのことに気がつくのは難しいものだ。

そしてそんなわたし自身だって、きっと気がつかずに理想に固執している部分をどこかに持っているのだろう。

現実が思い通りにいかず苦しくなったその時は、このことをふっと思い出せるといいな、と思っている。